とうしょう尚 コンテンツに戻ります。  崎 尚

番外編えぴそーど 陶工房と新規築窯

2009年9月 竣工
備前福河前山工房
  備前焼 陶尚 備前福河第2工房
         (2009年9月竣工)

   新規築窯計画
2009年備前福川第二工房へリンクします


2003年にはジャングル、、。
木々を伐採し、

2004年3月にはこんな処でした、、。

備前で作陶するから「備前焼」?
備前の技法が「備前焼」?などと
自問自答しながら、新規築窯計画を
亀の歩みにて、
コツコツと進めてきました、、。
私が生まれた赤穂市福浦、
この地は昭和39年まで岡山県は
備前の国で、その名残がJR赤穂線の
駅名「備前福河」と言う訳です。
また、その以前の江戸時代には岡山藩主
池田光政によって開設された世界最古の
庶民学校、国宝の閑谷学校
その津田永忠率いる先生方が
学田や学林を教える中、新田開発に
よってもともとは海であったこの地に
防波堤を設け水田を造ったと、
地なのです。

(2004年3月)
上の写真が窯場より
JR赤穂線・備前福河駅を眺める
2009年5月の水田風景。
海を埋め立てて造った水田は
海抜0メートル。
昭和49年の水害時には一面が
海でした、、。

左の写真は窯場周辺の山から
大量の雨水を海まで流すための
人工河川
(土砂災害警戒区域に指定され
平成になってコンクリート工事された。
以前は盛り土だけで造らていました。)
左の写真がその人工河川を越えて
窯場へ行くための橋。
2007年5月完成の鉄橋です。

そんな窯地は粘土質の山土が採れる事で
瓦の制作原料、建物の壁土の他に、
水田開発に必要不可欠な貯水用の
人工池の敷き土にも
使われていたそうな、、。
福浦新田周辺には大小数多くの
人工池が山裾に点在しております。

当然でしょうが、昔のことですから、
山土を手掘りして、人力で運び、
施工していたのかと思うと気が遠くなります。
木々を伐採後、更地にしていきながら、
山積された大小の小石を眺めていく中で、
そう感じるのでした。

またそう考えると、それに負けないように、、
っと、励みにもなりました。




私の単身で新規築窯にっと言う拘りの一つに、
その昔への葛藤があったと思います。

採掘跡とはいえ、木々を伐採し自然を壊してまで
この地を選び、この地を使わせて戴く。
先陣の方々はこの地に、こんな者が
こんなものが建とうとは
想像もしていなかったことでしょう、、。
っと、思うのです。

当初は、備前から地元へ、、。
窯だけでも、、。

そんな思い。から奮起し、
山地を更地にし、土壌の調査、
試験焼成などを進めていく中に、
故郷の懐かしみや、
先人たちのパワーなど感じられて、
完全な移転を目指して、。
っと、思うようになりました。
2008年1月には送電を受けれるようになり、
現在は小さいながらも新しい工房が
昨秋に完成しました。
大本命の半地下式の穴窯は
煙突部分のみが完成。

今後さらに、窯の本体にその建屋、。
また、手広く使える来房の方が
使えるような工房も備えたい。
また、
さらに山を少し上がったところには、
御忍びでたしなめる茶室も、、
っと、思うのでした。

2008年9月
更地の造成地に松の木の新芽が芽生えております。

2009年5月
窯場より移植の松の小木


2009年5月窯場にて、、山藤

2008年4月窯場にて、、山桜
2008年9月窯場にて、、栗
毎年、恵みに感謝し、調理しております
大好物の栗の渋皮煮

左の写真は
窯場より移植の松の小木
2010年3月現在
少し大きく成長してくれました。


陶尚の野望は、行動が伴わず
相も変わらず亀の歩みですが、
自然との共生の中に

一段一段と前へ進めたら
良いかなっと思うのでした。

新規築窯へ向けて、、。



2010年3月


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