番外編えぴそーど 陶工房と新規築窯
2003年にはジャングル、、。 木々を伐採し、 2004年3月にはこんな処でした、、。 備前で作陶するから「備前焼」? 備前の技法が「備前焼」?などと 自問自答しながら、新規築窯計画を 亀の歩みにて、 コツコツと進めてきました、、。 |
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私が生まれた赤穂市福浦、 この地は昭和39年まで岡山県は 備前の国で、その名残がJR赤穂線の 駅名「備前福河」と言う訳です。 また、その以前の江戸時代には岡山藩主 池田光政によって開設された世界最古の 庶民学校、国宝の閑谷学校、 その津田永忠率いる先生方が 学田や学林を教える中、新田開発に よってもともとは海であったこの地に 防波堤を設け水田を造ったと、 地なのです。 |
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(2004年3月) |
上の写真が窯場より JR赤穂線・備前福河駅を眺める 2009年5月の水田風景。 海を埋め立てて造った水田は 海抜0メートル。 昭和49年の水害時には一面が 海でした、、。 左の写真は窯場周辺の山から 大量の雨水を海まで流すための 人工河川 (土砂災害警戒区域に指定され 平成になってコンクリート工事された。 以前は盛り土だけで造らていました。) |
左の写真がその人工河川を越えて 窯場へ行くための橋。 2007年5月完成の鉄橋です。 そんな窯地は粘土質の山土が採れる事で 瓦の制作原料、建物の壁土の他に、 水田開発に必要不可欠な貯水用の 人工池の敷き土にも 使われていたそうな、、。 福浦新田周辺には大小数多くの 人工池が山裾に点在しております。 当然でしょうが、昔のことですから、 山土を手掘りして、人力で運び、 施工していたのかと思うと気が遠くなります。 木々を伐採後、更地にしていきながら、 山積された大小の小石を眺めていく中で、 そう感じるのでした。 またそう考えると、それに負けないように、、 っと、励みにもなりました。 |
私の単身で新規築窯にっと言う拘りの一つに、 その昔への葛藤があったと思います。 採掘跡とはいえ、木々を伐採し自然を壊してまで この地を選び、この地を使わせて戴く。 先陣の方々はこの地に、こんな者が こんなものが建とうとは 想像もしていなかったことでしょう、、。 |
っと、思うのです。 当初は、備前から地元へ、、。 窯だけでも、、。 そんな思い。から奮起し、 山地を更地にし、土壌の調査、 試験焼成などを進めていく中に、 故郷の懐かしみや、 先人たちのパワーなど感じられて、 完全な移転を目指して、。 っと、思うようになりました。 |
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2008年1月には送電を受けれるようになり、 現在は小さいながらも新しい工房が 昨秋に完成しました。 大本命の半地下式の穴窯は 煙突部分のみが完成。 今後さらに、窯の本体にその建屋、。 また、手広く使える来房の方が 使えるような工房も備えたい。 また、 さらに山を少し上がったところには、 御忍びでたしなめる茶室も、、 っと、思うのでした。 |
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2008年9月 更地の造成地に松の木の新芽が芽生えております。 |
2009年5月 窯場より移植の松の小木 |
2009年5月窯場にて、、山藤 |
2008年4月窯場にて、、山桜 |
2008年9月窯場にて、、栗
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毎年、恵みに感謝し、調理しております
大好物の栗の渋皮煮 |
左の写真は窯場より移植の松の小木 2010年3月現在 少し大きく成長してくれました。 陶尚の野望は、行動が伴わず 相も変わらず亀の歩みですが、 自然との共生の中に 一段一段と前へ進めたら 良いかなっと思うのでした。 |
新規築窯へ向けて、、。 |
2010年3月 |